出版社/著者からの内容紹介
東京・四ツ谷のフレンチレストラン「北島亭」。食通をうならせるばら色の極上ステーキはいかに生まれるか? 緊張と熱気に満ちた厨房のスタッフワークを、食材の仕込みから深夜の閉店まで密着リポート! この1冊でフランス料理の味わい方が変わる。
抄録(「電子書店パピレス」より)
第一章 早朝の厨房
午前七時。この時刻あなたはなにをしているだろう。ベッドの中で心地よく眠っている。駅に急いでいる。二日酔いで頭をかかえている。早朝会議で上役にしぼられている? 運動選手ならトレーニングの最中だろうか。
「北島亭」が一晩の休息から目覚めて再び始動するのも午前七時。この時刻のスタートはレストラン業界においては、遅くもなく早くもない。ランチを出す出さないなどといった営業システムの違いでまちまちだ。
◆早朝の厨房
7:00
店の鍵を預かっている厨房スタッフの森俊雅がドアを開ける。同時刻、深沢大輔が到着し、ほぼ同じ頃に赤松如記、伊藤穣も到着する。そろってコーヒーを飲み、目を覚ます。
さあ、仕事の顔になった。
火がついたガス台に、前日から仕込んできた煮込み鍋や、野菜をゆでるための鍋がかかる。誰もいない夜中の厨房では単に金属の器であった鍋が、彼らの手がふれることで使命を取り戻し、うまい料理を作る道具に立ち戻る。
早朝の厨房は、仕込みが主な仕事だ。ドアの細い隙間から斜めの光が差し込む中で、四人四様、黙々と自分の仕事をこなしていく。聞こえる音といえば、水が流れる音、鍋を動かす音、魚をまな板に据える音、時折道具が洗い場にふれて鋭く響く金属音くらいだ。誰も口をきかない。だからといって決して仲が悪いわけではない。毎朝の決まりきった仕事だから、互いに口をきく必要がないのだ。
彼らは定められた持ち場を間違いなくクリアすることに集中している。同じ仕事を精度高く同じレベルに仕上げること、間違いがないこと。今この本を読んでいるあなたが、どのような職業についているかはわからないけれど、このことがいかに難しく大切であるかはご承知だろう。
赤松は若い四人の中では経験が長く、「北島亭」ではセカンドと呼ばれる料理長に次ぐ二番手の役付きである。北島の信頼も厚く、オードブル、デザートすべてを任されている。森は焼き場仕事の補佐と付け合わせ全般を担当。北島と呼吸を合わせて仕事の進行を見計らう。伊藤は魚の係で、おろしをはじめとする下ごしらえすべてを担当。最近、肉の掃除も任されるようになった。深沢は見習い中で、細かい仕事すべて。
フォン(だし)を取るような仕事がある時には、朝からストーブに火がつけられる。フレンチレストランで言うストーブとは、暖をとる器具のことではなく、ガス台およびオーブンが合体した大きな加熱調理器具のことである。古くは薪ストーブであったものの名残なのだが、いくつもの調理を並行させる折にはたいへんに使い勝手がよい。鍋を直接火にかけたいときにはガス台に載せ、間接的に柔らかく火を通したい時には奥の台へ置き、肉や魚をローストしたい時には下部に取り付けたオーブンに入れる。
このストーブの使い方の巧拙が料理人の腕前を表し、調理場で働く者は、いつかはストーブの前に立って自分の手で肉を焼いたり魚を煮たりしたい。だからこのセクションには特別に“ストーブ前”という言葉がある。「北島亭」のストーブ前は北島自身だ。
フランス料理好きならすでにご存知だろうが、フランス料理には、フォン・ド・ヴォー(仔牛で取る肉料理の基本だし)、フュメ・ド・ポワソン(魚で取る魚料理の基本だし)といった料理の味の決め手になる大きな要素がいくつかある。和食になぞらえるなら、昆布とかつおのだしのようなものだ。特にフォン・ド・ヴォーは大人の男がすっぽり入るほどの大きな鍋をガス火にかけっぱなしにしていなければならない。ホテルのような大規模の厨房では毎日鍋を火にかけられるが、「北島亭」の厨房のように、五人が立ち働くと、すれ違うにも気を付けなければぶつかってしまうこの面積で、鍋を毎日火にかけっぱなしにすることは出来ない。だから、フォン・ド・ヴォーは時間と場所の余裕のある時に大量に取り、冷凍保存することにしている。
これに対し、フュメ・ド・ポワソンは作りおきをしないのが「北島亭」の原則。必要に応じて、魚のあらをたたき切って水洗いし、にんにく、たまねぎ、セロリ、パセリと一緒に、水で煮て沸騰させる。二〇分で取れるから、常に新しいものを使いたいのだ。和食で言えば潮汁(うしおじる)のようなものだ。
ちなみに、和食の一番だしに当たるコンソメは月に二回取り、これも冷凍しておく。ただし、ブイヨン(スープのもと)、フォン・ダニョー(仔羊で取る基本だし)は毎朝取る。パイ生地はまとめて作っておき、冷凍しておく。これらの仕事は北島の指示で動くこともあれば、任されていれば自分の判断で行う。
なお、店の方針によって、フォン・ド・ヴォーは取るが、フュメ・ド・ポワソンは取らないという場合もある。最高のフォンは「水」と考える派もある。この基本姿勢からも、料理に対する考え方をうかがうことが出来る。北島は、日本でフランス料理を作るからには、基本をしっかりと押えたフランスの味を出したいと考えるから、フォンもフュメも、その他必要な基本は押える。
*この続きは製品版でお楽しみください。
著者について
大本 幸子(おおもと ゆきこ)
一九四四年愛媛県生まれ。中央公論社を退職後、フードジャーナリストとして、食材そのもの、料理人、食材を作る人、お酒を造る人、サービスする人など、食をとりまくさまざまな職業の人の取材を続けている。大本幸雄、幸之丞のペンネームも使い分ける。